8月15日、終戦記念日を迎えるたび、私は亡き父のことを思い出します。
昭和4年生まれの私の父は、中学生のときに志願して霞ヶ浦航空隊に入り、零戦(零式艦上戦闘機)のパイロットとして空を飛びました。
戦後、多くを語りたがらなかった父ですが、お酒が入ると決まって口にする言葉がありました。それは、戦果を誇る武勇伝などではなく、一生消えることのない深い後悔の念でした。
もしも、終戦があと半月遅れていたら、父は生きて帰れず、私や娘、そして孫たちの命もこの世に存在していなかったかもしれません。
父が遺した言葉、命を繋いで迎えた現代の穏やかな日々、そして孫たちと過ごすちょっとクスッと笑える日常を通じて、70歳になった私が今あらためて感じる「平和への祈り」を綴ります。

霞ヶ浦航空隊と、過酷を極めた訓練の日々
昭和4年生まれの私の父は、まだ中学生という若さで自ら志願し、霞ヶ浦航空隊へと入隊しました。
当時の訓練は、想像を絶するものだったといいます。
- 大の字に縛り付けられた大車輪で、広い原っぱをグルグルと回される平衡感覚の訓練
- 海へ不時着したときを想定し、長い白褌(ふんどし)を締めて泳ぎ続ける過酷な遠泳
そんな厳しい日々を乗り越えた父は、やがて零戦の操縦桿を握るようになります。
「零戦は本当に操縦しやすい、いい飛行機だった」と、操縦性については誇らしげに話してくれたことがありました。
「3人の人生を奪ってしまった」晩年まで続いた父の後悔
父は非常に視力が良く、上空ではいつも誰よりも早く敵機を見つけていたそうです。
実戦での交戦は3回。父はその手で3機を撃ち落としました。
映画やゲームの世界なら「英雄」として描かれるのかもしれません。しかし、現実は違いました。
「俺は3人もの人を殺してしまった。3人もの人生を奪ってしまったんだ」
晩年、お酒を口にすると、父は必ずそう言って深く悔やんでいました。
「撃たなければ自分が撃たれる」――極限状態の中で生き残るためにはそれしか道がなかったと頭では分かっていても、心に刻まれた傷が癒えることは死ぬまでありませんでした。
終戦の年、基地には「日本はもう負けている」という空気が充満していたといいます。
連日のように特攻隊への志願が募られ、志願者が一人も出ない日は夕飯抜きという理不尽な罰を受けました。
そして、原爆投下、終戦。
もしも終戦があと1ヶ月……いや、半月遅れていたら、父は間違いなく特攻で命を落としていたはずです。
そうなれば、私という存在も、私の娘も孫も、この世に生まれてくることはありませんでした。父の制服や写真は、復員時にすべて焼き捨てられ、形としては何も残っていません。
それでも、父が生きて帰ってきてくれたからこそ、今の私たちがあります。
27年前、肝臓がんにより69歳で旅立った父。今でもたまに夢に現れては、あの優しい笑顔と心地よい低音の声で語りかけてくれます。
孫たちと見る『火垂るの墓』と、サクマ式ドロップスの思い出
そんな父から命を受け継いだ私にも孫が生まれました。
戦争を知らない世代にその悲惨さを少しでも知ってほしいと思い、幼い孫たちと一緒にアニメ映画『火垂るの墓』を観たことがあります。
しかし、幼い孫たちの心に一番強く残ったのは、物語の悲劇性よりも作中に出てくる「缶入りのドロップ」でした(笑)。
15年ほど前、まだお店で売られていたその缶ドロップを見つけた孫は「買って〜〜!」とおねだり。
孫にめっぽう甘い私は、「いいよ〜〜!」と二つ返事で買ってあげました。
ところが、私の娘は歯科衛生士。 「虫歯になるからダメ!」と烈火のごとく怒られてしまいました。
せっかく喜んでいる孫から取り上げるのはあまりにも可哀想……。そこで私は名案(?)を思いつきました。
「中身をキシリトールガムと入れ替えよう!」
缶を開けてガムを詰め替え、何食わぬ顔で渡したものの――当然ながらあっさりバレて、孫には大泣きされてしまいました。「ごめんね〜〜!」と謝りつつ、今となっては家族の微笑ましい思い出です。
平和な日常が、ずっとずっと続きますように
70歳になった私は、いわゆる「戦争を知らない子供たち」の世代です。
お腹いっぱいご飯が食べられて、大好きな孫にお菓子を買ってあげられて、他愛もないことで叱られたり笑い合ったりできる――。そんな当たり前の日常は、戦火を生き抜いた父たちの犠牲と苦悩の上に成り立っています。
終戦記念日を迎える今日、父への感謝を胸に、改めて強く願います。
この穏やかで温かい日本の平和が、子供たちや孫たちの未来へ、ずっとずっと続いていきますように。
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