【先天性股関節脱臼】1957年、父が救ってくれた私の足。70歳の今、感謝を込めて歩む道

昭和32年(1957年)、信号機すらなく、まだ車も1台も走っていない九州の小さな村。そこで私は生まれました。幼稚園はなく小学校があるだけ(今は廃校です)。中学校も、スーパーもありません。

そんなのどかな村で、私が1歳になったときのこと。 歩こうとするものの、どうしても二、三歩で止まってしまい、つかまり立ちのまま泣いている私を見て、両親は町に一つしかない医院へ私を連れて行きました。

医師の診断は「脱臼だろうから、国立病院へ連れて行きなさい」というもの。

その時、母の口から飛び出したのは、(母らしいといえば母らしい)驚きの一言でした。 「別にチンバ(足が不自由)ならチンバでもいいがや。結婚はできんでも、勉強させて学校の先生かお医者さんにでもなれば食っていけるが」

つわりが酷く、妹をお腹に宿していた母にとっては、病院へ行くのが億劫だったのかもしれません。しかし、その言葉に猛反対したのが父でした。

「そんなバカな!こんな時代にチンバなんてありえない。そんなむげねぇ(かわいそうな)ことはできん!」

父のその強い一言が、私の人生を大きく変えることになります。

往復5時間の通院と、父の擦り切れたジャンパー

当時はまだ、戦争の負傷者などもいて、足を引きずって歩く人が珍しい時代ではありませんでした。私の病名は「両脚の先天性股関節脱臼」。しかも右側はかなり激しくズレていたそうです。

治療のために、股関節を180度開脚した状態でギブスで固定されました。

村にはまだ車が1台もない時代です。父がギブス姿の私を抱き抱え、バスと電車を乗り継いで国立病院へと向かいました。その道のりは、往復でなんと5時間。

1年間にわたる通院の末、私の足は歩けるまでに回復しました。後になって、その1年で「父のジャンパーが擦り切れてボロボロになっていた」と聞かされました。私を抱きかかえ、必死に守り続けてくれた証拠です。お父さん、心からありがとう。

大人になって知った、誕生の秘密

大人になってから、母の口から何度も聞かされた事実があります。 私は生まれた時、仮死状態だったそうです。お産婆さんに逆さ吊りにされて叩かれ、ようやく息を吹き返したものの、その時に股関節が抜けてしまったのではないかと母は言っていました。

「死んでいるなら仕方がないと思った」 「足が不自由でも別にいいと思った」 「元々子供が嫌いだったから、本当は一人も産みたくなかった。お父さんに懇願されて産んだんだ」

そんな言葉を何度も耳にしました。少し寂しい気持ちもありましたが、同時に「ああ、本当に父が私を望み、父が私の命と足を救ってくれたんだ」という実感が、私の中でより強くなっていったのです。

70歳の今、父から生かされた命を悔いなく生きる

70歳になった今でも、私の右足は左足より少し短く、歩くと後ろから見て右肩が落ちるのが分かるそうです。56歳の時には、長年の負担がたたって右膝の半月板手術も経験しました。

でも、私は私の足で、ハーフマラソンを走り切ることができました。父があの時、諦めずに病院へ連れて行ってくれなければ、全く違う人生になっていたはずです。父への感謝は、言葉では言い尽くせません。

私を救ってくれた父は、69歳で肝臓がんのため旅立ちました。母は86歳まで生きました。

そして今、私は父の享年を超えて70歳になりました。 年齢を重ねるごとに、確かに体力は衰え、手足に不自由さを感じることも増えてきました。だからこそ、今強く思うのです。

「動けるうちに、やりたいことをやろう!」

父が守ってくれたこの命、この足。一歩一歩を大切に、これからは自分が心からワクワク💕ドキドキ💓することに時間を使っていきたいと思います。人生、悔いのないように!

#先天性股関節脱臼 #シニア #70歳に暮らし

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