【実話】昭和38年、夏祭りの夜の記憶|小2の私が目撃した祖父の自死と、60年後に知る家族の連鎖

思い出の中の家族

今から63年前、昭和38年(1963年)の夏。

東京オリンピックを翌年に控え、街には「東京五輪音頭」や「こんにちは赤ちゃん」が流れていた時代のことです。


当時小学2年生だった私は、年に一度の夏祭りを心から楽しんだその夜、人生で2度目となる「人の死」を目の当たりにしました。

懐中電灯の光の先にあった、祖父の姿。幼かった私には理解しきれなかったその光景の背景には、大人の事情や複雑な人生の影がありました。


そして長い年月が経った今、家族を巡る歴史と向き合いながら、私にはどうしても守らなければならない存在がいます。

あの日から今日に至るまでの記憶と、今の私の思いを綴ります。

昭和38年、夏祭りの帰り道

1963年、翌年に東京オリンピックを控えた年。

そんな年の夏祭り。年に一度、たくさんの夜店が出る特別な日でした。

当時の村には自家用車など1台もありません。午後3時、7人家族の我が家はお祭りへ向けて出発しました。 父が押す自転車の前後の補助席には妹たち。

私と母は歩きです。往復2時間の道のりですが、普段からよく歩いていたので苦にはなりませんでした。海岸線の凸凹道を大勢の家族連れが歩く様子は、まるでアリの行列のようでした。

曽祖母は息子の家に泊まりがけで出かけており、いつもなら泊まりに行く祖父が「今年は留守番をする」と言って家に残っていました。

夜店を巡り、美味しいご飯を食べる楽しい時間。帰り道、妹たちは自転車の補助席でコックリと船を漕いでいました。

九州の夏の夜8時は、まだ薄っすらと明るさが残っています。 けれど、帰り着いた我が家は真っ暗でした。

ミカン倉庫の懐中電灯

「じいちゃん!帰ったで〜〜」 父が声をかけましたが、返事はありません。

居間の明かりを点け、台所の土間に降りた父が「倉庫の戸が開いちょるぞ」とつぶやきました。

普段は閉まっている棟続きのミカン倉庫です。 懐中電灯を手にした父が、突然大声で叫びました。

「母ちゃん!母ちゃん!」 父が声を荒らげることなど滅多にありません。慌てて土間に降りて駆けつけた母も、「チョー!!どげぇしょう!!どげぇしょう!!」と取り乱した声を上げました。

何事かと気になって見に行った私の目に飛び込んできたのは、父と母の体の隙間、懐中電灯に照らされた光景でした。 首を吊り、ぶらんと下がったまま動かない両脚。前に倒れた禿げた頭。

もっとよく見ようと前に出た瞬間、「見るな!あっちいっちょれ!」と父に怒鳴られ、私は弾かれたように後ずさりました。

父はお隣へ走り、やがて大勢の大人が集まってきました。 居間にいた妹たちは、買ってもらったヨーヨーで無邪気に遊んでいます。

倉庫から祖父が下ろされる様子は見せてもらえず、慌ただしい声だけが聞こえていました。

家族の記憶と、受け継がれたもの

母方の祖母の葬儀とは違い、泣いている人はほとんどいませんでした。

普段からあまり家に居ず、遊んでもらった記憶もない祖父の死に、幼い私は悲しさも寂しさも実感として湧きませんでした。

祖父には父が小さい頃から外に女性がいて、苦労した祖母は父が結婚する前に亡くなっていたそうです。 亡くなった祖父の年齢はおそらく63歳くらい。

自死の理由は、外の女性が亡くなったからだろうと大人になってから母に聞かされました。 そんな祖父を反面教師にしたのか、父は桁違いに子煩悩な人でした。

あれから63年、今思うこと

昨年、娘が躁うつ病を患い、医師から「原因の一つに遺伝的な要素もある」と告げられたとき、真っ先に脳裏をよぎったのはあの日の祖父の姿でした。

実は、父の兄も50代で、父の弟も40代で自死を選んでいます。

その連鎖を知るからこそ、強く思います。 「娘を絶対に死なせるわけにはいかない」と。

2026年4月、長年連れ添った夫を見送りました。

いま、私は娘が暮らす町への引っ越しを具体的に考えています。

過去の影に引きずられるのではなく、今ある命を、大切な家族を守り支えていくために。63年前のあの夏を思い出しながら、前を向いて歩き出そうとしています。

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