昭和35年、春。4歳だった私が目撃したのは、今の時代では想像もつかない「お葬式」の光景でした。
家に届いた一通の電報。村中から集まった人々が声を上げて泣く喧騒。そして、横たわる祖母が納められたのは、四角い棺ではなく「丸い大きな樽」……。
70歳になった今も、あの日の情景は色褪せることなく私の脳裏に焼き付いています。
それから60年以上の月日が流れ、時代は「土葬」から「火葬」、そして「直葬」へと大きく変わりました。
先日、夫を静かに見送ったばかりの私が、幼い日の強烈な記憶を辿りながら、変わりゆく「命の見送り方」と、今の時代を生きる私たちが選ぶべき「終い方」について綴ります。
1960年、昭和35年3月。4歳の私が見た「非日常」
今から60年以上前、私がまだ4歳だった頃の記憶です。 母方の祖母が、60歳でこの世を去りました。
当時は家に電話すらなかった時代。訃報は「電報」で届きました。 母は妹を出産したばかりで動けず、幼い私が母の代わりとして、母の実家で行われる葬儀に参列することになったのです。
そこに広がっていたのは、幼い私の脳裏に一生焼き付くことになる、あまりに鮮烈な光景でした。
眠っているだけに見えた祖母と、異様な「白い三角」
家で行われたお葬式。溢れんばかりの弔問客は皆、声を上げて泣いていました。 19歳だった一番下の叔母は、取り乱すように大声で泣き続けていました。
でも、4歳の私は涙が出ませんでした。 横たわる祖母は、ただ眠っているようにしか見えなかったからです。
唇は赤く、今にも「は〜!」と息をついて目を開けそうな気がしました。 ただ、鼻に詰められた綿だけが、どこか苦しそうで、死というものがよく分からないまま、私はただじっとその光景を見つめていました。
棺は「丸い樽」だった。座ったまま旅立つ祖母
驚きはさらに続きました。 白い着物を着せられ、長い髪を垂らした祖母。その額に巻かれた**「白い三角のハチマキ」**が、子供心にひどく異様で怖かったのを覚えています。
そして、運ばれてきたのは長方形の棺ではなく、大きな丸い樽でした。 漬物桶のようなその中に、祖母は座らされたのです。
「婆ちゃんの最後やから、ちゃんと見てな」
叔母に促されて覗き込んだ樽の中。 あんなに大好きだった祖母が、小さく丸まって座っている。 「狭くて、かわいそう……」 そう思った瞬間、樽に蓋がされました。
「行かないで!」泣き崩れる叔母の声と、初めての涙
「母ちゃん!母ちゃん!」 蓋がされた樽にしがみつき、狂ったように泣き叫ぶ末の叔母。 周りの大人が必死に引き離そうとしても、彼女は「嫌〜!嫌〜!」と泣き崩れました。
そのあまりに悲痛な姿を見たとき、私の目からも涙が溢れました。 父の手を強く握りしめ、声をあげて泣きました。
「人の死とは、こんなに悲しいものなんだ」
4歳の少女が、初めて「死」というものの重みを肌で感じた瞬間でした。
昭和から令和へ。変わりゆく「見送りの形」
祖母を乗せた樽には縄がかけられ、天秤棒で担がれて山へと運ばれていきました。 「ずっと座ったままでかわいそう」とずっと思っていましたが、数年後に骨になってから骨壷に納められるのだと知り、大人になってようやく安心したのを覚えています。
それから時が流れ。 10年後の祖父のときは火葬になり、そして2026年4月15日。 私の主人が70歳で旅立ちました。
本人の希望で選んだ「直葬」。 翌日の午後には、主人は小さな骨壷に収まりました。
あんなに騒がしく、村中が泣き、数日かけて送った昭和の葬儀。 そして、静かに、速やかに、簡素化されていく令和の葬儀。
70歳になった今、思うこと
9人の子供を育て上げ、26人の孫に恵まれた祖母。 私がが小学校に入るまでは生きていたい、と願っていた祖母。
あの日から60年以上が経ち、祖母の逝った歳を超え70歳になりました。 今でも思い出すと涙がこぼれるあの強烈な土葬の記憶は、私にとって「命の重み」そのものです。
時代は変わり、今は自分で自分の死後を選べる時代です。 情報が溢れる中で、私はどんな風に人生の幕を引くべきか。
主人の骨壷を前に、溢れる思い出を辿りながら、自分自身の「これから」を静かに考え始めています。
#昭和の土葬 #丸い桶(座棺)#白い三角のハチマキ(天冠)


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