1986年 ダイアナ妃が初来日 その頃は悲惨でした・・・
26歳で離婚し、2人の娘を育てるために、私は自分の身体がぼろぼろになるまで働きました。
ワープロ技術を身につけ、早朝のパン屋、焼肉屋、講師の仕事……。それでも毎月赤字は積み重なり、財布には紙幣が一枚も入っていない日がありました。
「寝なければいい」と1日おきに徹夜を繰り返し、ついに倒れたあの日。
生活保護という選択は、逃げではなく、家族を守るための「命綱」でした。
この記事では、私がどのようにして生活保護を受け、そして自分の足で再び歩き出すことができたのか、その経緯をありのままにお話しします。
今、苦しんでいる誰かの心に、少しでも明かりが灯りますように。

働いても働いても届かない「普通」の暮らし
26歳で離婚して数年、私は「どんなに苦しくても、自分で稼いで娘たちを育てなければ」と必死でした。
これからはワープロができないと仕事にならない時代が来る――そんな予感から学校に通い、夜はスナックで働きました。そして、職安でワープロ講師の仕事を見つけました。
しかし、現実は甘くありませんでした。時給はいいけれど働く時間は短く、通勤や準備時間を考えると生活費には到底届かない。
そこから、早朝パン屋、24時間営業のレストラン、深夜の焼肉屋と、掛け持ちの日々が始まりました。
「寝なければいい」という過酷な選択
家賃を抑えるために引っ越し、物を売っても赤字は止まりません。
だんだん貯金が底をつき、冷蔵庫には食パンの耳しかない。給料日まで1週間もあるのに財布は小銭。給食のありがたさを噛み締める日々でした。
かくなる上は……。私は「1日おきに寝ればいい」と、徹夜を繰り返して働きました。
半年後、身体は限界を迎えました。
突然の激痛で救急病院へ搬送され、「疲労による臓器衰弱」との診断。母子家庭だから医療費が無料だったのが、せめてもの救いでした。
隣人のおばあちゃんの言葉に救われて
隣人のおばあちゃんがかけてくれた言葉が忘れられません。 「生活保護の申請をしなよ。元気になるまで頼ってもいいんだよ」
その言葉は、心に沁みました。そうか・・・元気になるまで頼れるんだ
役所へ行き、通帳の残金327円を見せ、手続きを進めました。親戚に頼れる人はいないか、換金できるものはないか……そんな質問にも正直に答え、ようやく私は「生きるための場所」を確保できたのです。
再起と「卒業」の時
生活保護を受けながら、私は職を探し続けました。
やがて問屋での事務仕事が決まり、体調を整えながら少しずつ働く時間を増やしていきました。 2年後、給料が上がったとき、民生委員さんに言いました。
「もう大丈夫です。給料が上がりました」
民生委員さんは驚きながらも「そうか、頑張りや。元気でな。」と笑顔で見送ってくれたことは、私の人生の誇りです。一度もらったら打ち切る人は少ないと言われる中、自分の力で「卒業」できたことは、自信に繋がりました。
娘たちへ――伝えたいこと
当時は家事もままならず、娘たちには本当に苦労をかけました。
「学校から帰って、家に食べる物が何もないのは、本当にキツかった。」と大人になってから聞いたときは「ごめんね」としか言えませんでした。
生活保護は、恥ずかしいことではありません。
それは、親子が人生を立て直すための「一時的な杖」です。もし今、同じような苦しみにいる方がいたら、どうか勇気を出して相談してみてください。 あなたと大切な家族の未来は、ここからまた、何度でも描き直すことができるのですから。
#シングルマザー #生活保護 #子育て #離婚 #人生の転機 #生活保護体験談 #子育て世代 #再出発 #シニアブログ

コメント