【実話】「死んどるならもういい」仮死状態で生まれた私を救った、70年前の父の叫びとお産婆さんの奇跡

  • 今から70年前の昭和31年。病院での出産が当たり前ではなかった時代、新しい命の誕生はまさに「命がけ」の闘いでした。
  • 「子どもはいらない」と言っていた母と、「頼むから産んでくれ」と懇願した子煩悩な父。24時間を超える壮絶な難産の末に産まれた私は、声をあげない「仮死状態」だったといいます。
  • 「泣かんから死んじょる。もういいで」と諦めかけた母。 「なんとか生き返らせてください!」と泣き崩れた父。
  • 車も電話もない時代に、私をこの世に繋ぎ止めてくれたのは、父の必死の願いとお産婆さんの神業のような知恵でした。今回は、私が命のバトンを受け取った、ある冬の日の奇跡の物語をお話しします。何も覚えていない私ですが、今だからこそ、両親と神様に心からの「ありがとう」を込めて。

昭和31年、潮の香りがする実家への帰省

私の両親は昭和4年生まれの同い年。6月生まれの母は、11月生まれの父に「私が5ヶ月お姉さんや」と、いつも少しだけ威張っていました。

そんな二人が26歳になった、昭和31年のこと。当時は初子(最初の子)の出産となれば、1ヶ月前から妻の実家に帰るのが田舎の習わしでした。

母の実家は、漁業を営む海の町。今のように車はありません。蒸気機関車、電車、そしてバスを乗り継ぎ、待ち時間を合わせると3時間はかかる長旅です。それでも、実家が近づくにつれて漂ってくる潮の香りが、どこか心地よく、張り詰めた心を和ませてくれたといいます。

当時の出産は、今とは全く違いました。病院の施設はなく、産気づけば電話もない中でお産婆さんを呼びに走る。無事に生まれたら、小さな桐の箱に名前と生年月日が書かれ、そこに臍の緒(へそのお)を入れてもらう。

まさに、すべてが「命がけ」の時代だったのです。

「子どもはいらない」と言った母と、父の懇願

実は母は、9人兄弟の4番目として育ちました。幼い頃から、朝4時に起きては帰ってきた船の魚の荷下ろしを手伝い、自分の遊びたい時間はすべて妹や弟の世話に追われる日々。そんな環境のせいか、母はすっかり子供が嫌いになってしまい、「子どもはいらない」と父に告げていたそうです。

しかし、大の子ども好きだった父は黙っていられません。「頼むから産んでくれ!」と必死に懇願し、母が渋々折れる形で、私はこの世に生を受けることになりました。

そして迎えた2月27日の午前3時頃。ついにその時がやってきます。

24時間を超える激痛、そして「泣かない赤ん坊」

朝方に「産気づいた」という電報を受け取った父は、嬉しさのあまり、自分がカバンに何を詰めたかも覚えていないほど慌てて旅支度をしたそうです。

しかし、お産は壮絶を極めました。 28日の午前3時を過ぎても、私はいっこうに生まれません。丸一日が経過し、母はとにかくこの地獄のような激痛から逃れたい一心だったといいます。本当にお産は痛い、痛すぎるものです。その気持ちは、同じ経験をした人なら痛いほど分かるはずです。

陣痛開始から26時間半が経った、28日の午前5時半。 やっとの思いで、私は生まれました。

しかし、部屋に響くはずの産声が聞こえません。 私はぐったりとした「仮死状態」だったのです。

精根尽き果てた母は、こう言ったそうです。 「お産婆さん、泣かんから死んじょるんやろ。死んじょるんなら、もういいで」

一見、酷すぎる言葉に聞こえるかもしれません。でも、激痛の限界を超え、もともと子どもが苦手だった母の、それが限界のリアルな本音だったのでしょう。実に母らしい、飾らない一言でもあります。

「生き返らせてください!」父の叫びとお産婆さんの神業

しかし、父は違いました。 「このまま死なせるなんてとんでもない!なんとかしてください!生き返らせてください!お願いします!!!」

部屋に響き渡る父の必死の懇願に、お産婆さんの目が鋭く光りました。

「ご主人!タライを二つ用意して、一つは熱めのお湯、もう一つは水を入れて持ってきて!」 「はい!」

父は無我夢中でタライを用意しました。ここから、お産婆さんの凄まじい蘇生術が始まります。 お産婆さんは、ぐったりとした私の足首を片手で掴むと、なんと逆さ吊りにしました。そして、熱いお湯と冷たい水のタライへ、私の体を交互にジャボン、ジャボンと浸けながら、背中をパンパンと力強く叩いたのです。

(まるで、ドラマ『JIN-仁-』で、橘咲さんが赤ちゃんを必死に蘇生させていたあの名シーンのようです)

「お願い、息をして……!」 静まり返る部屋の中、何度も、何度も繰り返されたその瞬間。

「……おぎゃあ、おぎゃあ」

小さな、でも確かな産声が部屋に響き渡りました。 私がこの世に命を吹き返した、奇跡の瞬間でした。父は、お産婆さんが本当に「神様」に見えたと、後々まで何度も語っていました。

命のバトンが繋がった奇跡に、ありがとう

昔の自宅出産では、死産は決して珍しいことではありませんでした。出産の瞬間まで双子だと気づかず、一人目を産んだ後にもう一人いると聞いてショックで失神し、そのまま亡くなってしまったお母さんもいたといいます。それほど、昔のお産は命のやり取りそのものでした。

母は後年、こう笑って言っていました。 「私が実家でダラダラ過ごして難産になって長引いたから、お父さんの到着が間に合ったんやな」と。

もし、お産がスムーズで、父が到着する前に私が産まれていて、仮死状態だったら……。母の一言で諦められ、私は間違いなくお墓に直行していたはずです。すべてのタイミングが重なり、父の執念とお産婆さんの知恵があったからこそ、今の私がここにいます。

もちろん、生まれたときのことを私は何も覚えていません。 けれど、あの日、必死に私の命を乞うてくれた父には、心からの「ありがとう」を。 そして、あの凄まじい激痛に耐え抜き、私を産み落としてくれた母にも、心からの「ありがとう」を伝えたいです。

命を繋いでくれたすべての人へ。 神様、本当にありがとうございました。

#昭和31年の出産 #仮死状態 #タライふたつ #お産婆さん #JINさきさん

コメント

タイトルとURLをコピーしました