【昭和30年代の夏休み】信号もテレビもない九州の片田舎|川の洗濯、セミとり、懐かしの絵日記と家族の記憶

思い出の中の家族

信号機もスーパーもなく、車すら滅多に通らなかった昭和30年代の九州の片田舎。

終業式にもらった甘い「肝油(かんゆう)」の味とともに、私の初めての夏休みが始まりました。

風が吹き抜ける開けっ放しの家、毎朝のラジオ体操、川で洗濯をする母たちの声、そして夕飯後にテレビのない部屋で父が話してくれた物語――。

今は過疎化が進み、母校も廃校になり、あの頃の家も空き家となってしまいましたが、私の心の中には今も鮮やかな夏の記憶が残っています。

今回は、不便だけれどどこか温かかった、昭和の夏の情景をお届けします。

「かんゆう」の缶と、子どもで溢れていた広場

小学1年生の終業式の日、学校で「かんゆう」という名の小さな缶をもらいました。

グミのような食感の栄養剤で、それが私の「初めての夏休み」の合図でした。

当時の家は、玄関も裏口も戸を開けっ放し。クーラーなんてなくても、家の中を心地よい風が通り抜けていました。

夏休みが始まると、朝6時半からは近くの広場でラジオ体操です。

当時は団塊の世代が小学6年生で、とにかく広場には子どもたちがウジャウジャといました。第一体操、第二体操を終えてスタンプをもらうのが毎朝の日課です。

午前中は宿題や家伝い。この頃までは、母も近所の川へ洗濯に行っていました。まさに「井戸端会議」ならぬ「川端会議」。川のせせらぎと一緒に聞こえるお母さんたちの話し声が、夏の午前中のBGMでした。

セミとりと、波打ち際で過ごした海

午前中の楽しみといえば、セミとりです。

当時は簡単に捕まえられた「ミンミンゼミ」。最近はとんとあの「ミ〜ンミ〜ン」という声を聞かなくなってしまいましたが、当時は夢中で追いかけていました。

7年も8年も土の中にいて、地上に出てからは1週間ほどしか生きられないセミを捕まえて遊んでいたなんて……今思えば子どもとは残酷なものだなと感じます。

午後は13時から15時まで、海へ泳ぎに行きました。 昔は気温が30度を超えることなんて珍しかったので、一番暑いこの時間でも海に入ることができたのです。

もちろん小学校にプールも水泳の授業もありません。保護者の方が二人交代で監視をしてくれる中、みんな我流で泳ぎを覚えていきました。

私はまだ泳げなかったので、波打ち際でパチャパチャと遊ぶだけ。

(ちなみに、私が泳げるようになったのは小学4年生の時。海で溺れかけ、視界全体が水色になって必死にもがいているところを従姉妹に助けられたのですが、なぜかその日を境に突然泳げるようになったのです。)

テレビがなかったからこそ生まれた、父との宝物の時間

我が家は農家でした。夕方になると、祖父母、両親、妹たち、そして私の7人家族全員で夕食を囲みます。

夕飯が終わると、父との勉強時間が始まりました。 絵日記は毎日書きました。1冊書き終えて、先生から次のノートをもらうほど熱中したのを覚えています。

父との勉強は本当に楽しい時間でした。父がいつも褒めてくれたからです。

絵日記を書くと「で、どう思った?」と聞かれ、自分の感想を書くようになると、父はさらに褒めてくれました。それが嬉しくて嬉しくて、毎日夢中で鉛筆を走らせました。

我が家にはまだテレビがありませんでした。

だからこそ勉強が終わると、父は本を読んでくれたり、自分の幼少期の話や戦争の話を聞かせてくれました。父の膝元で聞く昔話は、何にも代えがたい豊かな時間でした。

残念ながら、その数年後に開催された東京オリンピックに合わせて我が家にテレビがやってくると、父とこうして深く話す時間は少しずつ減っていってしまいました。

ピカピカの木造校舎と、突然の2位

この年、木造だった小学校が建て替えられ、ピカピカの鉄筋校舎になりました。 一番驚いたのは、初めて見た水洗トイレ。「家のトイレもこれになればいいのに」と心から思ったものです。

校舎の建て替え工事の影響で、その年の運動会は中止になりました。走るのが大苦手だった私は「やったー!」と心の中でガッツポーズをしたのを覚えています。

しかし、新しい校舎ができてからのこと。朝礼が終わった後、友達と階段を競走で駆け登る遊びを日常的にしていたら、なんと小学4年生の運動会では徒競走で2位に!あれには自分でも本当に驚きました。

凸凹道を歩いた夏祭りと、時の流れ

私の育った町には、幼稚園も中学校もありませんでした。スーパーどころか、信号機すらない(そして今もない)田舎です。

車を持つ家もほとんどなく、移動はみんな自転車かバスでした。

7月の終わりになると、町の大切なイベントである神社の祭りがありました。 4kmほどある凸凹の道のりを、みんなで歩いたり自転車を漕いだりしてお参りに行きます。

夜店が並ぶ風景は、子ども心に輝いて見えました。 帰り道はもうクタクタで、妹は自転車の後ろに乗ったまま寝てしまっていました。昔の私たちは、本当に良く歩いたものです。

あれから、長い年月が経ちました。

過疎化は一気に進み、町は空き家だらけになりました。 子どもたちの声が響いていたあの小学校も、25年前に廃校となりました。

そして我が家も、24年前から空き家になり、今ではもう人が住める状態ではありません。時代の変化とともに、数年前お墓じまいも済ませました。

信号機もテレビもなかったけれど、家族の温もりと豊かな自然があったあの昭和30年代の夏。

形あるものは少しずつ失われてしまいましたが、父に褒められた絵日記の嬉しさや、夕暮れの風の心地よさは、今も私の中で優しく生き続けています。

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