「大好きな人と結婚すれば幸せになれる」――そんな淡い期待を抱いていた20歳の私。
1976年、九州の農家に嫁ぎ、船乗りの妻となったその日から、私の生活は一変しました。
埠頭で夫を見送るときに込み上げる涙、そして農作業と家事に追われる終わりなき毎日。新婚わずか二、三ヶ月で芽生えてしまった、離婚という名の「別れの種」。
夫は家を空け、ようやく帰宅しても寄り添うことはない。義父の厳しい視線の中で、いつしか私は「妻」ではなく「女中」へと変えられていくような感覚に陥っていました。
なぜ私はこの結婚を選んでしまったのか。
同じ環境に嫁ぎながら、幸せを掴んだ友人と私の違いは何だったのか。 これは、20歳だった私が経験した、結婚という名の甘酸っぱくも厳しい試練の記録です。

埠頭で流した、最初の涙
1976年。20歳だった私は、6歳年上の船乗りの男性と結婚しました。
夫の仕事は、毎月20日間を海の上で過ごし、残りの10日間だけが休日というもの。新婚生活の舞台となったのは、夫の実家である九州の農家でした。
結婚式と新婚旅行を終え、わずか一週間後。夫はすぐに船へと戻っていきました。
埠頭で夫の背中を見送った時、なぜか「まるで戦争に行ってしまうのではないか」という不安に駆られ、涙が止まりませんでした。
今思えば、その直感は、この先の結婚生活を予兆していたのかもしれません。
「女中」のように扱われる毎日
実家は、お米から長芋、ごぼう、そして酪農まで営む大所帯。家族は両親と義弟、義妹、そして私を含めた5人暮らしです。
朝5時の起床から始まり、朝食、掃除、洗濯、畑仕事の手伝い、牛の世話、そして昼食の準備。ようやく一段落したかと思えば、義父による「指の先で埃チェック」が待っていました。障子のさんや照明カバーを人さし指でなぞられ、埃があればやり直し。毎日が大掃除のような緊張感でした。
午後は軽トラで市場へ荷運びをし、買い物と夕飯の支度。夜9時を回ってようやく手に入る自分だけの時間。
その時、ふと洗面所に溜まった、夫のいない洗濯物を手にして思いました。 「私は何のために、こんなことをしているんだろう」
諦めがつくまで半年かかりました。義母は優しかったけれど、義父の厳しさと、まるで「女中」のように扱われる日々に、少しずつ心がすり減っていきました。
すれ違う心と「後悔」の種
20日間の仕事を終えてようやく帰ってきた夫。しかし、夫にとって家は「安らぎの場所」ではなく「ただの寝床」でした。牛の世話を少し手伝うだけで、あとは友達付き合いと称して外へ遊びに出かけてしまいます。朝帰りも・・・
「起きて待たれるのは嫌だから、先に寝てくれ」新婚の妻に対して放たれたその言葉に、絶望に近い衝撃を受けました。
あれほど「親孝行がしたい」と願って給料の高い仕事を選び、両親の反対を押し切ってまで選んだ結婚。それなのに、夫は私の幸せ感には全く興味がなかったのです。
「いつか、離婚しよう」そう考え始めたのは、結婚してわずか数ヶ月後のことでした。
実際、6年後にその決意を実行することになります。夫の浮気も絶えませんでしたが、何より決定打だったのは「子煩悩ではなかったこと」でした。
幸せな結婚生活との分かれ道
不思議なことに、私と同じ日に同じように船乗りの農家の長男に嫁いだ友人は、今も仲良く夫婦生活を続けています。
何が違ったのか。 当時は「若さゆえの浅はかさ」を悔やむばかりでしたが、歳を重ねた今振り返ると、好きだけでは結婚は無理!よ〜く分かります。
あの頃の私に、もし一言声をかけられるなら――。 「もっとしっかり目を開いて相手を見なさい!」そして、「早い決断で大正解だったよ」と言ってやります。
70歳になった今、こうして当時の経験を振り返ると、あの厳しい農家での日々も、今の自分を形作る大切なプロセスだったのだと少しだけ俯瞰できるようになりました。
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